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本光寺住職のダラブログ

これからのお寺は変わらなければ。「人間ダラといわれて一人前」を掲げる住職の、御門徒さんとのふれあいブログ、略して「ダラブロ」

 今年の夏は毎日うだるような暑さが続き、外出するにも億劫になるくらいです。こう暑いと我々が門徒宅へお参りに行っても、大概の家には仏間にクーラーが無く、然も我々の服装は和服なので、その度毎に汗だくになってしまいます。
殊にお葬式の時などは七條袈裟といって厚い毛布のような物をきつく体に巻きつけて、何本もの紐で雁字がらめに縛られている訳ですから、勤行中は汗が顔や頭から玉汗となって流れます。

 以前、このように汗しぶってお葬式を勤めていましたら、私の座っている真横辺りから心地よい風が送られてくるのです。私はそれが何かと、横目でチラリと見ると、一人の知らない婆さんが私の直ぐ脇まで来て、「お大層じゃ、お大層じゃ~」と小声でつぶやきながら自分の小さな扇子で私の顔の辺りを煽ってくれているじゃないですか。私はこうゆうの弱いんですよね。でも、私は何となく照れ臭いながらもそのかすかな、その微風がその時とても有難かったし、その婆さんの気遣いに胸が詰まる思いでした。

 しかし、このようなことは稀な話で、その反対に或るお葬式では私が曲録(きょくろく:導師専用の朱塗りの椅子)に座ると、斜め前に私たちに向けて扇風機が廻っています。<中々ここの人はよく気が付くな。これは有難い>と、感心していると、にわかにそこへ何者かが平然とその扇風機を自分の座っている場所に持ち運んでいきます。<えーい、なんて余計なことを!>と心の中で叫んでも、到底相手には気付く筈もありません。ここは我慢だと自分に言い聞かせながら諦めていると、後の方で「こっちにも風を廻せま」と、声が聞こえます。どうも私を始めみんなで、‘風’の取り合いをしていたようです。

 さて、今回のテーマで私にとって忘れられない人物がいます。名を竹内鉄孝といって、年齢は私と約40歳違いでした。話すと、べらんめえ口調で威勢がよく多少荒っぽかったが、さっぱりとした気性の人でした。長年、大林組で隧道工事専門に仕事をしていた経歴を活かし昭和63年の会館建設の折も建設実行委員長を務めてもらい、凡そ1年の工事期間、ほぼ毎日寺に通い、時には何日も寺で寝泊りしてまで、丸で現場監督のようでした。彼はよく「ワシは珪肺病だから、肺炎になったらお陀仏なんじゃ」と言っていましたが、皮肉にもこの工事が無事完成した半年後、肺炎を患い亡くなりました。爾来、私が無理をさせて、私が死なせてしまったように思えてならず、毎年欠かさず旧盆の14日早朝、家族で墓参りをして、墓前で一言「竹内さん、ご免ね」と言って詫びることにしています。

住職の口癖  住職が私腹を肥やすと、寺は滅びる。

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 心配をしていた台風8号はうまく日本をそれて行き、昨日の円満朝市は好天気に恵まれ、大勢の人出で賑わいました。

 台風といえば、その進路が気になるものですが、先月の台風6号にしても気象庁の進路予測から判断して、小松直撃は必至だと覚悟し、寺内のすべての戸と窓の施錠の確認と寺敷地内の風で飛び散る物等の片付けをして万全を期し備えておりましたが、幸い通過してみれば左程の被害も無く、ほっと安堵しました。
台風3
 私は台風が発生する度に、いつも天気図に描かれた台風の進路予想図を眺めながら、例えば、沖縄辺りにいる台風だと、そのまま直進して朝鮮半島に向かって行ってくれないかな、と思ってみたり、また、四国や近畿に向かっている台風だと、上陸を断念し、そのままUターンして元に戻るか、或はそこから直ぐ右に曲がって、海上を北進してくれないものか、などと勝手に思惑進路を描いたりします。
台風2 
 
 それが遂に、上陸は已む無しと分かっても、依然と私は何とか台風が小松から大きく外れるように強く願ってしまうのです。たとえ、沖縄や九州で突風や土砂崩れなどの水害でどれ程の甚大な被害が出ても、その時点では多少の同情はしますが、それらは私にとって矢張り余所事でしかありません。兎に角、自分が大事なのであって、私の心の中から‘福は内鬼は外’の掛け声が聞こえます。


 そうそう去年の台風10号でしたか、上陸後北陸に向かって来て、それが白山連峰の尾根伝いに石川県を通過して行きました。その時、台風の東側の地域に大変な被害をもたらしたのですが、西側の北陸の平野部では全く正反対で、台風の気配さえ感じさせないほどの穏やかな空模様でした。この時、地元では誰もが、これは白山のお陰だ、きっと白山が台風から我々を守るために衝立のように手を広げて風防の役割を果たしてくれたのだ、と思ったことでしょう。その時、私などは大層な被害に遭った地域と比べて「あんな所に住んでおらんでよかった。小松は結構なええ所や。喜ばんとな」と、つい思ってしまうのです。
白山
 そう云えば、以前こんな法語がありましたな。「あの人に比べて感謝せねばならんという心は、他人の不幸を喜ぶ心である」と、正にその通りですね。他人の不幸を踏み台にしてみなければ、今の自分の境遇が喜べないとは、全く浅ましい限りです。

住職の口癖  師事した先生が物足らなくなる、それが成長の証し。

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 私が大学一回生の夏休みに、空手部の合宿に備え、一ヶ月程アルバイトをしてその資金を稼ぐことにしました。そこで、京都の河原町八条付近の小さな鉄工所でアルバイトをすることになりました。その鉄工所には4,5人の人が働いていて、後で分かったことなのですが、そこは社長を始めとして勤めている人皆が在日朝鮮人の人たちでした。私の仕事は、細い鉄筋を火鉢で餅を焼く時に使う網がねのような形に溶接した長方形の物を、一枚ずつ型を作る機械に挟み込み、その機械から突き出ている二本の棒を握って両手で向こうに押しやるようにして曲げて、全体をL字型の形に仕上げることでした。
この単純な作業を一日中やる訳です。でも、三日位に一度はこの仕事を中断し、これまでに仕上がった製品を長浜の生コンの会社まで2tトラックで運ぶのですが、いつもこの配送にはトラックの運転手の人が私を助手にと連れて行ってくれました。因みに、私が曲げたL字型のその物は、型枠の中に入れてコンクリートを流し込むと、舗装道路の脇の歩道との境の側溝の部分だったのです。

 ところで、私はこの運転手の人と、京都⇔長浜の道中、車の中で在日朝鮮人であるが故に、これまで受けてきた様々な苦労話や日本に対する不満話を度々聞かされました。兎にも角にも、この工場の在る界隈は朝鮮人街でしたので、銭湯に行けば中にいる人がすべて朝鮮人でしたし、その上、皆の体には刺青をしている人ばかりで、薄暗い光の湯気の中、その異様な光景が今でも思い出されます。

 やがて、私もここを辞める時期が来て、私とのお別れ会だと言って、初めてこの運転手の人は自分の家に誘ってくれました。行ってみると、そこは在日朝鮮人の集合住宅で、小型の体育館のような建物というか、倉庫のような建物というか、そのような建物が平行して二棟並んでいました。その二棟の間は通路になっていましたが、通路の頭上には物干し竿の替わりに何本ものロープがその建物の間に張られてあって、そこを通るには乾してある洗濯物を暖簾ように両手でかき上げて歩いて行きました。そのようにして建物の端まで進むと、漸く共同の玄関先に着きました。建物の中に入ると、そこには何世帯もの家族が住んでいるようでしたが、驚いたことに住戸の境にちゃんとした間仕切りの壁が無く、ただ部厚い毛布のような、シートのような物で隣と仕切られてあるだけなのです。私はそれを見て、<こりゃ、長屋より悪い生活環境だ>と思った程でした。

 この日、この運転手が私に言いました。「日本人で、ここへ来たのは、お前が始めてだ。大学は辞められないのか」と、意外にもそれがここに留まるよう熱心に口説かれて仕舞ったのでした。


住職の口癖  子供を思いのままにしようとするは、親の気まま、かな。



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 私は学生時代、留年した3年間に尺八というものに大層りまして、筝曲や山本邦山が創作した尺八曲に代表されるような、所謂、現代邦楽に傾倒しておりました。卒業してからは、暫く小松にいた間、芦城民謡会というサークルの仲間入りをさせてもらって尺八を習っていました。練習がいつも晩だったものですから、練習が終わると一人で2本の尺八を持って、近くの〝おかだ〟というクラブに行き、習いたての民謡を披露したり、お客さんの唄う歌謡曲の伴奏をしたりして遅くまで呑んでいました。当時はまだカラオケは走りの頃で、このクラブにはピアノしかありませんでしたので、お客さんには大変喜ばれたように記憶しています。


 いつだったか、その頃にこのクラブにしょっちゅう出入りをしていた、やっちゃんというオカマさんに会った時、「わたし、あの時のご院さんの尺八を吹いている姿が今でもはっきりと覚えているわ。また聞きたいわ。もうやらないの」と、せがまれたことがありましたが、残念ながら今では尺八の竹も割れ、火吹き竹にも使えません。

 ところで、誰でも酒を呑んでいると、ふと、とんでもない事が頭に閃くことがあります。つい2ヶ月ほど前に、円満の会の呑み助3人と寺の近くにある〝蔵くら〟という馴染みの居酒屋に呑みに行った時のこと。その店には40歳前後の店主と愛くるしい表情の女性がいて、私はかねがねこの女性の存在が気になっていたものですから、「君ら、夫婦なの?」と聞いてみたら、「違う」と言うのです。それで「恋人?」と聞くと「そんなもんです」「じゃ、一緒に暮らしているんだ?」「はい」「結婚は?」「いやー」「じゃ、籍は?」「いいえ…」と、どうも二人の仲は訳ありのようです。これ以上二人に立ち入った話を聞くのも気の毒だと思いつつも、段々皆にも酒が廻ってきたのか、調子付いてきまして、この先の話に皆は興味津々です。ところが、連れの一人の園井というお方が突然烈火の如く怒り出したのです。「どーぉー!籍も入れんと一緒に暮らすなんて話にならん。それでも男か。人の娘を何やと思うとるんや」と、男性の方を激しく責め出したのです。

結婚式1  結婚式2
 まさしく、その姿はその女性の父親に成り代わったようでした。その時、女性はウルッときているようです。私はその表情から涙らしきものを見て、ついつられ「よし、ワシがしたる、君らの結婚式を。金は要らん。その代わり朝市にしたらどうだ」と言うと、皆は「それはいい」と一同賛成をするじゃないですか。
 まぁ、このような訳で、明日の朝市で結婚式をすることになったのです。幸い天気も良さそうです。この時の模様は本光寺のHP「スカッと念仏 」をご覧下さい。乞うご期待。

住職の口癖  団体組織のトップの立場にある者は、金を欲しがらないこと。


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 この‘だらメル’も、今回で108回になりました。月に3回ずつ皆さんに配信して、丁度、丸3年が経ったことになります。私は予てより自分で密かに108回を目標にしていましたので、達成できたことで一先ずホッとしているところです。

毎回、ダラなことを、ダラダラと書き続け、さぞかし人は迷惑だろうなどとは一向に顧みようともせず、ただ、生理現象のように促がされるままに書いてきました。これまでの間、反響メールも数々頂戴しましたが、一番嬉しかったものは私の‘だらメル’を読んで「ご住職の人柄を味わい、云々」と、今まで一度もお会いしたことのない方からの言葉でした。まさか私の書いた文章から、私の人柄を感じ取って下さるとは夢にも思っていなかったことでしたから、私にとっては全く予想外の感想でした。でも、それが一番励みにもなりましたし、書いておってよかったと思えたことでもありました。

大した思想を持っている訳でもない私が、こうばくな(賢こそうな)ことを述べても、それは説得力が無く、ただ丸裸な私を表現することしかできません。私は世の中を変えようなどという滅相も無い大それたことを考えている訳ではなく、唯、この本光寺が何とかならんものか、何とかしたいと、いつも思っているだけです。寺を私物とせず、皆の共有物でありたい、寺を今の時代にもっと活かすことができないものか、などとずっと思い抱いていたことが、これまでのこの‘だらメル’の一貫した流れであり、書き綴ってこられた原動力でもありました。

私には幸い、寺に働く13人のよきスタッフにも恵まれ、また、円満の会 が結成されたことで、多くの素晴らしい人たちとの出会いをもたらして頂きました。私はこの本光寺が寺族の寺から門徒の寺へ、門徒の寺から地域の大事な寺へ…と、変貌し、進化し続けて、いや、本来の寺へと帰って行くことを夢見ています。

私の大好きなチャーリー・チャップリン が「この世を生きていくことに必要なものは、夢と勇気とちょっとのお金があればよい」という良い言葉を残していますが、これを私流に言い換えるならば、夢は大きく、行動は大胆に、贅沢は慎むこと、ということになりましょうか。

それでは、勝手乍ら、今後、この‘だらメル’は、定期便ではなく、たまに送らせて頂くことにします。

住職の口癖  葬式代は、楽をすれば、その分高くなる。



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 本光寺の本堂裏、後堂の渡り廊下の白壁に縦1m、横1.5mのが掛けられてあります。その額に描かれているのは、水盤に松をシンに菊の花を添えた画に、「高さ三間、幅六間余。本光寺再建遷仏供養のため酢屋定清が立てた」と書かれてあります。

杉板の額

 本光寺が現在の地に移ったのは文化3年(1806)で、約200m離れた栄町から7年掛かりの工事を経て移築されたのでした。その遷仏落慶法要がこの年 の10月20日に営まれ、その大典を盛り上げようと高さ6m弱、幅10m強のこの巨大な生け花を境内の何処かに立てたというのです。それは実際どのような 光景だったのか。また、6mもあろう松をどうやって水盤に立てたのか。今となれば、それらは計り知れない謎です。



 以上のような訳で、去年、移築200年の年に当たるということで、私の独断ながら7月頃にそのお祝いの法要を盛大に執り行ないたいと思いました。
 
 そこで、私はその法要期間中、200年振りに額の画に描かれている生け花を再現ができないものかと、ついついまた、ダラなことを考えてしまいました。
人があの額の画を見て、どのように感じ取るか、それをどう再現するか、その発想は全く自由です。実際の木や花を使うのもよし、光線や煙霧を使って演出するのもよし、他に現代的な技法で立体的に表現することができれば、それもまた素晴らしいことではないかと思いました。

 多分、当時の本堂移築工事を成し遂げた棟梁を始め多くの人たちが、その喜びの想いを巨大な生け花に表現して、境内に聳え立つ大伽藍の脇に花を添えて飾り たかったのではなかろうか、と私にもその想いが伝わって来るような気がします。きっと、それらの人たちはその光景を見た時、大きな感動を抱き、大仕事を終 えたという安堵感と、晴れ晴れとした満足感に浸ったことでしょう。


巨大生花  
巨大生花2

 私はこの生け花の画を眺めながら、もしかしたら200年後の私たちに送ってくれた何かのメッセージがこの画の中に含まれているのではないかとさえ思えてくるのです。


住職の口癖  平凡こそが、実は非凡。

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 よく人から「住職は門徒の名前をよく覚えている」と言われます。居酒屋や馴染みの寿司屋などで一杯やっていると、時々こんな会話が耳に入ってきます。

 大概、どこの店の人も私を「ご院さん」とか「住職さん」とか言って呼ぶものですから、これは何時のことだったか、ある店で、私を知らない50歳前後の二人連れの客が「あれ、どこの坊主や」と声を潜めて店の者に聞いています。「そこのほんこっ(本光寺)さんや」と、応えている声が私の耳にかすかに聞こえてきます。すると、その客が「えっ、うらんとこも(俺の家も)本光寺の門徒かも知れんな」と何とも自信なさそうに言うものですから、その客の連れの人が「お前も、じょんなこと言うとんなま(変なことを言うな)。わがんとこ(自分の家)の寺も知らんがかいや」となじると、すかさず「うらんとこ、所帯出やしんな(分家だから)、まだ誰も死んどらんわいや、知らんで当り前やろ」と、段々と声が大きくなって、私の所まではっきりと二人の会話が聞こえてくるようになりました。

 そこで、私もその会話の中に割り込むことにして、「お名前は、何と云われるんですか」と訊ねると、その人はニヤニヤしながら「内緒」と言って、中々身元を明かして呉れません。私が「じゃ、せめて町名だけでも教えてよ」としつこく聞くと、連れの人が、遂に友人を裏切り、「こいつ、○町や」「家はその○町のどの辺、北、南…」「北の端や」「分かった、お父さんの名前、○秀雄さんと違う。よう顔が似てるもんね」「すごい、大当たり」と喝采を浴びました。

 私は今まで門徒というと、不思議と大半の名前は覚えられるのですが、門徒外の人の名前ですと、たとえ簡単な名前でも一向に覚えられないという変なタチなのです。

 ところで、今日の寺は、門徒は減っても、増えにくい時代ではないかと私には思えます。その辺のところを、近10年前からの傾向を調べてみると、本光寺では一年に15乃至20軒位の門徒が絶えず減少しています。それは改宗離脱というのではなく、所謂、家に嫡子がいないための絶家が増えているのです。その主因になっているものは、核家族化のためでしょうか、それとも少子化のためなのでしょうか、今後この傾向はどんどん進み続け、その数は増加の一途をたどるように思います。これには私も全く打つ手がありません。

 でも、今、このようなことを悲観するよりも、もっともっと個々の門徒と寺との絆を深めることを考えていかなければなりません。

住職の口癖 人はワシに頭を下げていたんじゃなかった、袈裟にだったんだよな。

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 通夜というのは、元々僧侶がお堂に籠って夜通し祈願行をすることを云うのだそうですが、それが何故に、いつから葬儀の前夜を指してそう云うようになったのでしょうか。下らん屁理屈を云うならば、通夜という言葉は夜通しと読めるので、深夜勤務したり、徹夜勉強したり、徹夜マージャンなどをして夜を明かすことも通夜ということになってしまいますが、どうもこの言葉には私は今でも馴染めないものがあります。
お通夜
 というのは、小松でも以前は、一般に仮通夜のことを内輪夜伽、通夜のことを本夜伽と云っていました。そもそも夜伽の伽とはお伽話の伽ですから、話し相手をすること、という意味ですが、この夜伽には近しい間柄の人たちが亡き骸の側に居て、互いに故人の思い出話などをしてつれづれ終夜を過ごしたのでした。ですから、夜伽では喪家の者が次々と訪れる弔問客にお礼を述べたり、逆に弔問客からお悔やみの言葉を受けたり、励まされたり、慰められたり、と文字通り夜伽はその場に居合わした者同士が心の痛みを分かち合う場であったのです。
お通夜1
 このようにこの夜伽という言葉には、通夜という無味乾燥な言葉からは伺えない趣を感じ取ることができます。私はこの夜伽という言葉の方が人情味を感じるのです。それに、つい30年前までは、特に夜伽の開始時刻は定めてありませんでしたので、我々僧侶も好きな時間に行って読経をしたものでした。当時は、今日のように同時に揃って皆で読経はせず、僧侶であれ、門徒であれ、一人ずつ読経することが慣例になっていて、祭壇の前で誰かが先に読経をしておれば、脇で自分の順番がくるまでじっと待っていました。

 ところで、私の母が14年10月に亡くなりましたが、その内輪夜伽の日に晩遅くまで酒を呑んだ後、母の一番下の弟が「今晩は姉さんと一緒に寝るから」と言って、独り母の居る部屋に残ることになりました。所が、その後1時も過ぎた頃、姉が私を起こしに来まして、「マコト、叔父ちゃんがとんでもない事をしているの。早く来て」と言うものですから、部屋に急いで行ってみると、何とその叔父がお棺の上に寝ているではありませんか。姉が「さっき私が、やめてよ!と言ったら、ひどく怒られて…」と、叔父を怖がっているのです。

 この叔父は7人姉弟の末っ子で、その中でも母を殊に慕っていたことを私は知っていましたので、私は最後だから甘えたいんだな、と思い「好きなように、させておけばいい」と言って部屋に戻りました。明くる朝、叔父に「よく眠れた?」と聞いたら、叔父が「それがね、マコト、お棺の蓋がかまぼこのようになっていてね、寝れたもんじゃなかったよ」と笑っていました。さて、読者の皆さんは、この叔父を莫迦になさいますか。

住職の口癖  ダラは計算に合わないことを、喜んでする人。

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 ある病院の待合ロビーで、5,6人の元気な男女の老人たちが大きな声で雑談をしています。それはさしづめ井戸端談義という雰囲気でした。そこでの話の内容は殆んどが世間話なのですが、皆、顔馴染なのでしょうか、とても親しそうに、和気藹々としていて楽しそうです。一見してこの人たちのそんな様子からは、到底病人のようには見えませんでした。

 そんな中、その内の一人の婆さんが、それまでの会話を遮るように「ねぇ、最近、○さん見えんねぇ。どうしましたんやろ」と、突然思い出したように皆に尋ねました。すると、別の婆さんが「おいね、そういや(そう云えば)、わてもここで、暫くおうとらんわ(会ってない)。ねぇ、あんた、同じ町の人やったんねえけ。知んまっしんがか(知りませんか)」と、隣に座っている爺さんに尋ねました。「おいや(そうね)、ワシも最近、おうとらんな。どっか(どこか)、体が悪いんやろかな」と言うと、その中の一人が「あら~、心配やね~。風邪でも引きましたんやろか」「あんな元気な人やったがにね。大丈夫なんかね…」と、一人の婆さんが言ったこのとぼけた一言で、そこに居合わせたすべての年寄りたちが互いに顔を見合わせながら、一同揃って「………」と押し黙ってしまいました。

 中には天井の一点を唯呆然と見上げている人や、下を向いたまま目をふさぎ腕組みをしている人など、その時の皆の表情は寂しそうにも見えるし、〝どうもこの会話は、何かおかしいのじゃないか〟という怪訝な表情にも受け取れて、それをここでつぶさに表現しようとしても、私の拙い表現力ではとても描き切れない場面でした。

 さて、この人たちは、この病院に何のために来ていたのでしょうか。
勿論、各々体のどこかの治療にこの病院に来ているのでしょうが、否、それだけではないようです。彼らには目的があるのです。兎角、連れ合いに先立たれた人は、独り家で閉じ籠もりがちになるので、それを嫌い進んで家を出て友人を求めようとするのじゃないですか。その対象が医者であったり、患者同士であったりする訳でしょう。病院の待合室は、言わば‘ふれ合いサロン’のような年寄りたちの交流の場なのでしょうね。

でも、寺も元々はこのような人との出会いや交流の場ではなかったんでしょうか。


住職の口癖  説教のネタというと、受売りのことが多いから空しい。


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 私は朝、外が白みかけると起き出して、天気のよい日は花に水をやることが日課になっています。境内には向拝(ごはい:本堂正面の軒下の辺り)や会館正面の階段に、色とりどりの花々をつけた約100鉢もの鉢植えが並べてあります。そもそもこれらの花はすべて門徒の今井栄作(86)さんが丹精して育てたものを、好意で自ら寺に持って来られたもので、眺めていても殺風景だった境内が綺麗な花々で飾られて、お陰で随分と明るく和やかな感じになったように思います。

 何故に私が花に水をやる係りなのかといいますと、女房が「朝は私も忙しいから、あんたが水をやってね。今の時期は水は少しでいいんよ。水をやり過ぎると根腐りを起こすから気をつけてね。でも、テッセンは水を欲しがるから、充分にやること。分かった?」「はい!」と、私は素直にその指示通りにやっているのです。

 春は花咲く季節です。その花を見て、誰もが浮かれて酒を呑み、歌い、踊る。この花見を去る10日、北陸大谷高校が或る大手企業から取得した凡そ4,800坪の土地に樹齢5、60年と云われる2本の大きな桜の樹があり、その下で、学校創立以来初の花見を開きました。この花見の目的は、学校が所在する町内の人たちと、花見を口実に学校開放の一環として地域交流をして親睦を図るためでした。その日、70人もの町内の人たちが参加して下さり、総勢130人ほどにもなり、先ずは予想以上の成果があったと思います。

 これから学校を存在感のあるものにしていくには、学校を自ら進んで開放することによって、地域の人たちから親しまれ、好感を持たれることが肝心だと、私は考えています。今まで、学校は全くこのことを考えてもいませんでした。学校の一番近くにいる人たちが、学校のことを知らない。それでは一番身近な人を他人扱いしているようなものです。そうならないように、有りのままの学校を見て知ってもらい、地元の人たちから正しい認識を持ってもらうことがこれからは大事なのです。
それで、今回の花見が盛会だったこともあり、4年前の9月26日には円満の会が後押しして、北陸大谷学校のグランドを使い、また学校周辺の住民たちと、仮称「レクリェーション大会」を開きました。これは決して体力を競うようなものではなく、老若男女が共に楽しめるような、ダンスとかゲーム感覚のようなものがよいと思っています。

 寺でも学校でも、楽しみは皆で創り出すものです。

坊守(女房)の口癖  何処のカラスも黒い。(子供たちにいつも言う言葉で、どの職場に行っても、苦労はつきもの、という意)

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